2010/09/27

佐藤多佳子『サマータイム』

サマータイム (新潮文庫)
佐藤 多佳子
新潮社
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 物凄く綺麗な小説.とにかく透明感があって,青春小説というよりはある種の童話のような純白さを感じる.読み終わったときに残るのは,長距離を走り終わったあとの爽快感から疲労感をそっくり抜いたような気持ちの良さだ.

 一つの物語が,四つの短編で様々な角度から描かれる.最初の一編が言ってみればエンディングで,わかっているエンディングを追うだけの物語なのに,その一編だけではまるで見えていなかった少年少女たちの心のうちが,物語り全体を磨き上げていく.
 物語の中で一番愛らしかったのは,進でも佳奈でも広一でもなく,種田さんとセンダくん.キザくさい台詞も表現も一つもないのに,よんでいるこちらが照れてしまうような初々しさと透明感があって,自分で言うのもおこがましいけれど,そこに物凄く自分を重ねてしまったりする.

 ただ,物語は爽快で透明である.普通に読んだ本ならおなか一杯でしばらく幸福感にひたっていただろうけれど,今年はバイブル級の会心作にゴロゴロ出逢っているので,ちょっと弱過ぎたかな.小中学生の頃に読めたら良かった本かも知れない.爽快感と透明感にしても,やっぱり今年読んだほかの作品たちの幾つかの方が,更に桁違いに深いのだから.

2010/09/25

めがね (2007)

めがね(3枚組) [DVD]
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VAP,INC(VAP)(D) (2008-03-19)
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 友達の話を聞いて久し振りに邦画.もたいまさこがいい,と言われて即レンタル.最近,洋画に偏り気味(そもそも映画を見る本数が若干減ってきたということもあるけれど)だったけれど,邦画も邦画で味があっていい.スピッツ的な映画のタイトルセンスも嫌いじゃない.

 価値観と世界観が素晴らしくいい.「携帯電話の電波が届かないところに旅したかった」という主人公の動機も物凄く素敵だし,たそがれること以外に何もすることがないという時間の感覚もとてもやわらかい.何より,「なんとなく不安になってきてそこから80mくらい走ったらそこを右」なんて説明書きの地図の,微妙な感覚が物凄くいい.
 刺々しいところのある小林聡美のキャラクターも絶妙だし,そして確かに,もたいまさこが本当に渋い.ライトを点灯させて自転車をこいできたサクラさんに,自分ひとり静かに盛り上がる感じ.

 ゆっくり時の流れに身を任せるような旅も生活も,最近していないなぁと反省してしまった.全国一周を達成してからは,旅に限らず何かと海外ばかりに目を向けてしまっていたということも理由にあるかも知れない.大学をサボって鴨川で寝転んで一日過ごしてみたり,大文字に登って昔の思い出にたそがれてみたり,南の島とは行かなかったけれど,そんな学生生活の一ページをふと懐かしく思う.素敵なカフェや美味しいレストランだけじゃなくて,今度は一日たそがれられるのんびりとした隠れ家も探してみようか.

Het Nieuwe Rijksmuseum (2008)

 「Het Nieuwe Rijksmuseum(ようこそ,アムステルダム国立美術館へ)」は2008年のドキュメンタリー映画.Twitterで紹介され,渋谷のユーロスペースでギリギリ公開されていたので,気になって観にいって来た.ここ3ヶ月くらい,映画館とはご無沙汰だったので久し振りの映画館.映画館のまわりは渋谷を象徴するような下世話な通りだけれど,マイナーな映画を細々と上映しているこういう小さな映画館は味があっていい.

 さて,ドキュメンタリー映画ということでノンフィクションもノンフィクション.アムステルダム国立美術館の改修工事をめぐる問題を実際に追った映像なのだが……正直,全く事前知識無しに観ただけに衝撃が大きかった.
 アムステルダム国立美術館は,Vermeerの作品4点を擁するオランダ屈指の美術館で,実は来年の長期連休を利用して訪れようと検討していた候補の一つだった.ところが,まずこの美術館が2004年からの改修工事をめぐって様々な問題を抱え,現在に至るまで閉鎖状態にあるということを映画を観て初めて知ったのだ.

 例えば美術館の公用通路の改築が一般市民の生活に波及して問題になったり,新しく新築される棟のデザインが美術館のコンセプトに合わず議論を呼んだり,問題の渦中にあった館長が突然の辞意を表明してリーダー不在に陥ったり,建築のコンペが失敗し予算が足りなくなったりと,もう見るに耐えない混迷振り.映画を見る限りでは,それぞれの問題のどこに原因があるのかは暗に訴えられているようであり,むしろそれがこの映画の狙いの一つなのだろうけれども,にわかとはいえ美術ファンの一人としては,世界的な美術館がこんなくだらない(そう,本当にくだらない)理由で長期閉鎖を余儀なくされているなんて残念で仕方ない.芸術を政治が後押しすることは必ずしも悪いことではないと思う(むしろ効果があるなら是が非でも着手すべき)けれど,この作品を観てしまうと,お役所仕事では限界があるのかも知れないと思わざるを得ない.

 幸い,作品達の一部は別館で公開中とのことだけれども,一日も早く問題の解決を願わずにはいられない,と思った映画.

上村松園展

 大雨の中,竹橋で開催されている東京国立近代美術館へ.大雨だというのに(大雨だからこそ?)会場はそこそこの人の入りで,特に年配の方の来客が多かった印象.着物の上品な雰囲気の女性も少なからず散見される,珍しい客層だ.休みの日に美術館に来てまで窓から職場が見えるというのは何ともいえない残念な感じがするけれども,どういうわけか初来訪となったこちらの美術館は,常設展の充実度も高く,京都の国立近代美術館とはジャンルもセンスも全く違って,面白さがあった.

 さて,上村松園展.
 女性日本画家の上村松園は,京都生まれの京都育ちということもあって,京都の美術館でも割と多くの作品を見たことがある.今回は大掛かりな企画展ということで全国各地から松園の作品が集まり,以前見たことがある作品もあれば,初見の作品もあれど,年代別に彼女の作品を追っていくと作風の変化や波が見て取れて面白かった.

 30代から40代にかけての,表情に富んだ作品の評価が高いようで,今回の企画展でも「焔」あたりが目玉の一つとして話題を呼んでいた.実際,憎悪や嫉妬を感じさせる女性の表情は「焔」という題目に見事にマッチする迫力のある作品だった.
 ただ,それ以外の年代の作品が魅力に欠けるかというとむしろ逆で,個人的には初期と晩年の作品のほうが見ていて面白かった.

 まず,初期の作品(19世紀の作品)は,空白の多さと線の鋭さがとてもいい.シャープなラインで描かれた人物と,後ろに広がる無限の無地.自分がこの企画展で一番気に入った作品は,「一家団欒」という作品で,(先週のDegasと同じく),無駄に空間の空いた構図にそそられた.筆のラインのみならず,色の塗り方も,この頃の作品が一番繊細であるように思われた.

 一方,晩年の作品は確かに表情の豊かさには欠けるように見えるけれども,これ以上無いという絶妙な視線を選んでいるらしいところがいい.「らしい」というのは,実はきっと自分の偏見で,この企画展の中盤フロアで松園の下書きの展示を見たときに松園の絵の描き方を知ったに過ぎないのだけれど,一人の女性を描くとき,微妙な視線や顔の傾きを何度となく試行錯誤しているプロセスがよく分かる.その中で松園が選んだコレという表情が一枚に凝縮されていると思うと,松園の絵の一枚一枚に愛着が持てる.

 最後に,松園展を一巡して思ったのは,日本の女性は美しいなということ.近代の日本画を見ていると,いつもそう思い,現代の日本女性を勿体ないなぁと感じる.

小堀四郎と鴎外の娘

  • 小堀四郎と鴎外の娘
  • 世田谷美術館
 「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」の半券で同時開催されている企画展「小堀四郎と鴎外の娘」展も観られるとのことで,回って来た.小堀四郎なんて名前は初耳だったし,展示もわずかだろうと高をくくっていたら,小堀四郎というのは森鴎外の義理の息子で,展示もかなり広いフロアで展開されていた充実の企画展だった.

 欧風の油絵であまりインパクトのある作品はなかったけれど,奥さんを描いた絵はどれも温かみがあって良かった.見るものの主観も大切だけれど,描く側の主観が一番にじみ出るモチーフなんだろうと思う.
 それ以外で印象に残ったのは,蓼科を描いた風景画.蓼科の寂しい森の風景にやたらノスタルジーを感じてしまったのは,そういう季節のせいもあるだろう.半券で実質無料で入れたにしては,お得感の多い企画展だったと思う.また,奥さんの小堀杏奴も小説家として活動していたようなので,時間を見つけて彼女の小説を読んでみるのもいいだろうと思う.

2010/09/20

ザ・コレクション・ヴィンタートゥール

 本当は来週あたりで行こうかと思っていたのだけれど,横浜から歩いて帰るのに丁度沿線にあることに気がついて,寄って来た.スイスの小さな街,ヴィンタートゥールの美術館の改修に伴って欧州からまわって来た巡回展で,マイナーな企画展ながら来日している顔ぶれは豪華だ.ポスターで見かけたGoghやPicassoのみならず,RenoirにDelacroix,SisleyにDegas,更にはGauguin,Monet,世紀末ウィーンのKokoschkaなどなど.自分の好きなCorotや,そのCorotが「空の王者」と絶賛したといわれるEugène Boudinの絵が観られたのも思わぬラッキーだった.

 Corotの絵は相変わらずいい.Corotについては何度も書かせてもらっているので語り草になりつつあるけれど,木の表現と人の小ささ,筆のタッチに色の暗さ,どれもとても自分好みだ.どちらかというと今回来日していた作品は,ややタッチが粗い感じがしたけれど,名前を見る前に誰の作品だかわかるというのはファンとして嬉しいことだ.

 そして今回,初めて名前を知ったEugène Boudin.帰ってから少し調べた限りでも,期待させるものがある.空の表現も個性的でいいのだけれど,タッチもかなり好み.印象派に影響を与えた,ということだけれど,印象派とは少し違ってスケッチ風のタッチが素敵だ.油絵に似つかわしくない,爽やかさと軽さがある.そういう作風がCorotとは逆を行っていて,そういう彼の作品をCorotが支持していたというエピソードも面白みがあっていい.彼の作品,いままで意識したことはなかったけれども,これを機に少し詮索してみようかと思う.

 あと,個人的に驚いたのは建築家のLe Corbusierの絵画作品,「ヴァイオリン,骨,サン=シュルピス聖堂の構成またはバロック様式の聖堂とヴァイオリンの静物」.Le Corbusierがもともと絵を描いていた,みたいな話はどこかで聞いた記憶がある(多分大学時代の建築の講義とか)けれど,実物を観たのは初めて.ただし,正直サッパリわからない.ピカソのキュビズムはテーマもモチーフもわかるけれど,もっと視点がずれている気がする.Le Corbusierの建築を偉大だと思ったことは一度もないので,やっぱりこの人とは相性が悪いのだろうなとぼんやり思ってしまった.

ドガ展

 来週横浜に行く予定があったので,その時に時間を調整して観に行っても良かったのだけれど,最近の運動不足を解消すべく,天気も良さそうだし横浜から自宅のある都内まで歩いてみようと思い立ち,日曜日の朝一番で横浜へ.
 開館時間に合わせて横浜美術館に到着したのだけれど,観客が多くまさかの入場制限.ものの数分待たされただけで入館出来たし,館内でも不快なほどの混雑はなかったものの,まだ開催二日目でこの始末だ.帰りがけには行列もなかったので,これから出掛ける予定のある方は朝方は避けたほうが無難かも知れない.

 さて,Degas.
 街中ではこの一ヶ月ドガ展のポスターが至るところで見られたし,新聞やテレビでの取り上げ方も上々.中でも注目を集めているのが,「L’Étoile(エトワール)」と呼ばれる作品だ.宣伝の効果もあって,話題性も抜群だ.この絵の前には弥が上にも人が集まる.

 ……凄い.この作品だけ群を抜いていい.というより,他の作品で思いのほか気に入った絵が無かったというのも正直なところなのだけれど,それにしたってこの作品は格別にいい.

 まずは色彩.パステルの効果なのか,普通の油彩画とはまるで違った印象だった.灰色ベースで描かれているのに,全体的に明るい.床一面のグレーの絵の具の伸び方が,物凄く滑らかで,且つ暗さを感じさせない.光の反射度が油絵の具と違うのかも.その上に描かれた踊り子の存在感も,一つには絵の具が影響しているのだと思う.下の色が透けるような色の効果も,パステル固有の特徴とのこと.パステルの描き方についてもう少し勉強しよう.

 次に構図.踊り子を主役に据えつつ,その踊り子を絵の中心に持ってこないこの構図が個人的には抜群に好き.広い床の中に輝くように浮かび上がる踊り子の存在は勿論のこと,後ろで見守る紳士らの存在感が際立って,舞台裏のストーリーが連想される.誰かが舞台のこの瞬間を実際に見ていたとして,その中心に映るのは間違いなく踊り子だ.普通より少しだけずれたこの絵の構図には,客観性があるし,また従来何かあるはずの中心に何もないからこそ踊り子の存在感が際立つのだと思う.
 だからといって意味もなく構図をずらしているわけでもなさそうで,個人的に思い当たるのは次の二点.一つは,構図をずらすことで踊っている踊り子の動きがよりリアルに見えること.踊り子の姿勢からしても,絵の右側に遠心力が働いているように見えるのはこの構図の効果ではないか.もう一つは,縦方向の位置関係.縦方向ではあくまで踊り子を中心に据えることで,この絵の主人公が誰なのかを十分に主張している.下側にガラリとあいた空白は,踊り子の存在感を引き立てるのに十分な役を担っているように思うし,下半分を手で覆い隠してみたところで,この絵の魅力は全く無くなってしまう.

 というわけで,「L’Étoile」を観られて良かった.来週も時間を調整して,もう一度この絵だけ観にいこうかな.他の絵に関しては,デッサンが多かったのでやや物足りない感.最後のセクションのDegasの彫刻が新鮮で,却って良かったくらい.いずれにせよ,これは来年訪れようと心に決めているオルセーにますます期待が高まる.

 余談だけれども,(あくまでこの構図の良さは個人的に感じたものであるにしても)企画展の販売グッズの多くが,この踊り子の部分だけを切り取って貼り付 けたものが多かったのはとても残念に思った.ご丁寧に,踊り子が中心にくるようにトリミングされた絵葉書まで販売されていてなおも幻滅.勿論自分は,オリ ジナルの構図の絵葉書を買って帰って来た.

ウフィツィ美術館自画像コレクション

 新宿は東郷青児美術館で開催されているウフィツィ美術館の自画像コレクション.ウフィツィ美術館は世界遺産の一部にも認定されているフィレンツェの美術館(というのはこの企画展に関して調べて初めて知ったのだけれど)で,そうそうたる名画家たちの作品が収められている.今回はその中から自画像だけを選んでの企画展.美術館単位での企画展は面白みにかけるものが多いけれども,今回はプラスアルファでテーマ性もあり,そこそこ期待して参上.

 一つに自画像といっても,時代から画風から何から何まで違うのでそれぞれを個別に比較することは出来ないけれども,自画像だからこそ,画家が絵にかける思いであるとか姿勢であるとかが見え隠れしていい.時代によってはパトロンや宗教の圧力が絵に加わったりもするけれども,そういった外力が一切ないからだ.

 今回の企画展でまず自分が期待していたのは,藤田嗣治.何せ,この企画展に集結している画家たちの顔ぶれを見れば,Bernini,Rembrandt,Vigée Le Brun,Chagallと,大物ぞろい.その中で日本人の自画像が堂々と並んでいるのはとても誇らしい.個人的には,この顔ぶれの中に並ぶに相応しい大物だとは思うのだけれど.
 藤田の自画像は,彼のモチーフの象徴でもある猫とともに描かれたもので,彼自身よりも隣の猫の表情がとても個性的で好きだった.彼の特徴的な薄い色彩よりも少しインパクトが効いて,日本画的な印象を感じさせる.それで描かれた猫の表情がとても荒々しく,今回の企画展の中でも異彩を放つ存在感を持っている.

 もう一つ,個人的に目に留まったのはChagall.Chagallはただいた東京藝術大学で特別展が開催されていて,巷でも静かなブームになりつつあるけれども,藝大で観たどの作品よりも彼の自画像は,温かく,色彩が柔らかく感じられた.夜をベースに彼と妻,背景にはロシアの郷愁風景が描かれる.Chagallの特徴をすべて盛り込んだような満腹感がある.

 それ以外にも,例えば彫刻の印象の強いBerniniの自画像だとか,現在bunkamuraで開催されている企画展の目玉になっているEmile Clausだとか,或いは個人的にベルリンで通り過ぎてしまっているはずのBöcklinだとか,見所は満載.絵に興味のない人が気紛れで立ち寄っても,好きな画家が一人二人は見つかる企画展だと思う.絵の説明文に併せて,画家の代表作の絵が小さく載せられているのも小さな心遣いが効いていていい.図録に同じように載せてくれたら,図録を買っても良かったんだけどなぁ…….

2010/09/11

知ることとは愛すること―田淵行男写真展

 吉祥寺でカフェ歩きをしているときに,たまたま目に付いて入った写真展.元々,写真の知識は無いに等しいので,田淵行男さんという方の名前も知らなかった.小さな展示室に集められた田淵さんの写真は,長野県の山々の風景を冷静におさめたものだった.静かで,厳かな,アルプスの山々.安曇野の風景.京都に次いで愛して止まない長野の本質を一枚一枚に凝縮したような写真達と向き合い,気紛れで立ち寄った思いつきにセレンディピティを感じていく.山の写真意外に,帳の写真や模写といった生物や美術の心得もあるようで,この写真家の人となりがとてもよく見える写真展だった.

 印象的だったのは,彼の山に対する思いだ.彼が山を歩くとき,一人を好むのは,彼が歩くことそのものに価値を見出しているのではなく,あくまで山の自然の風景を観察することに価値を見出しているからだという.とてもよく分かる.ここ10年とか15年とかの間,或いはもう少し前から,やたらと「自然」という言葉が乱用されているが,大抵の場合は自然を再現した人工の緑であることが多い.街の並木道,自然公園,ハイキングコース.自然は,人間が手を加えた瞬間に自然でなくなる,という人もいる.キリスト教圏では,「Nature」は神が創りあげたものだけを指すから,やたらと多用するのは好ましくない,なんて話を大学受験の頃に聞いたこともある.人間も自然の産物だから,人が手を加えても自然は自然,というくらいに自分は思っているけれど,人間の足跡が少なければ少ないほど,普段見える景色とはまるで違う世界が拓けるということもある.喧騒を忘れて自然に溶け込めるということもある.

 ともあれ,そうした自然への熱い思いの痕跡が,写真と併せて展示されている彼自身の言葉を通じて伝わってくる.一言一言が,レンズの手前の撮影者の視線を映し出すようだった.

 彼の写真の安曇野やアルプスは,とても美しかった.でも,その美しい自然の長野を,自分はよく知っている.久し振りに長野に行きたくなった.うまい具合に,来月,連休が控えている.実家の車を走らせて,上高地の紅葉と,安曇野の畑,白馬の山々に身を投じてみるのもいいだろう.ついでに,安曇野アートラインや山梨の美術館を散策するのも悪くない.

2010/09/10

第95回記念二科展

 国立新美術館で開催されている二科展.こちらは全国巡業の展覧会である分,東京での公開期間は短いので時間のあるうちにと出掛けて来た.絵画だけでも作品は1000点近くに及び(一般的な企画展が100点前後であることを考えれば気の遠くなるような数字),これにほぼ同数の写真と,彫刻まで加わる.新美術館の1階から3階までを使った超大型の美術展は,例え熱烈な美術ファンだったとしても,観て回るだけで心身ともに疲弊しきってしまうスケールである.

 1000点もの作品の中で,約半分は現代アート的な難しい絵.正直なところ,よく分からない.あとで藝大の学園祭を見たときに顧みて感じたのだが,藤田嗣治の時代から続く登竜門的な展覧会ということもあって,作品達は良くも悪くも閉じているといった印象があった.中途半端でも,妥協して作品を完結させることは,こうした展覧会を目指す以上は避けられないジレンマのような気がするが,良い方向での奇抜さが感じられる作品は少なかった.
 ただ,1000点もあると逆に歴代の名画家たちの作品よりも強烈な存在感を放つ作品も幾つかある.そういうのがいい.今回の展覧会でも,何時間でも観ていられそうな絵が10枚くらいあった.残念だったのは,これだけ多くの作品が展示されながらも,絵葉書になって販売されていた作品は100点あるかないかくらいのもので,自分が気に入った作品も結局1枚しか絵葉書になっていなかった.そういうわけで,図録を買おうか悩んだものの,その値段は3500円.一枚辺り3.5円だと思えば高くはないのだろうが,この展覧会の後で藝大の学園祭と渋谷の企画展をハシゴする予定があり,少なくとも渋谷では図録を買うであろうことは目に見えていたので,我慢して結局,1枚の絵葉書だけを買って帰って来た.第94回記念の図録も併せて販売されていたので,来年また来れば,今年の図録が購入できるのではないかという淡い期待を抱く.

 余談として,絵画だけで疲れきってしまったので,ほとんど流す程度に観てきた写真と彫刻だが,実はこちらの方が素人目には見ていて面白いんじゃないかなと後になって思った.

2010/09/08

綿矢りさ『勝手にふるえてろ』

勝手にふるえてろ
勝手にふるえてろ
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綿矢 りさ
文藝春秋
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 職場の購買の本屋さんで新刊が出ているのを知って,かといって職場で買うのはやや気が引けたので帰りに別の本屋さんで買って帰る.綿矢りさと言えば芥川賞のときに読んだくらいで,特に印象に残ってる,というわけでもないのだけれど,彼女が京都出身であるということと,実は同じ1Q84年世代だということで気になる文化人の一人ではあるのだ.

 さて,そんな綿矢りさの新刊『勝手にふるえてろ』.

 主人公の女性は,いち社会人.何度か声をかけあったことのあるだけの小学校時代の初恋の人の存在を,妄想と空想の中で十年以上も温め,膨らませ,毎日を過ごしている.方や,現実世界でも出逢いがないわけではないのだけれど,肝心の相手候補はやっぱり思い出の中の初恋の人に勝てない.そんな状況の中で,彼女は泥沼の妄想に嵌り,ストーカーまがいの行動に打って出る.そこから始まる彼女の気づきと変化と諦めの物語.

 とにかく妄想の酷い,世に言うメンヘラな女性の主観で書かれた物語.気持ち悪くて,痛々しくて,そしてリアルだ.といっても,世間の多くの読者にとってはリアリティも何も無くて,ただ気持ち悪さと痛々しさしか残らないのではないかという気もする.筆者曰く,「現代の女の人の気持ちを鮮明に描いたつもり」なのだそうだが,現代の男の人であるはずの自分こそ主人公の脳内に共感できすぎて最早笑うしかない.だからリアリティというよりは,自分の内面を客観的に投射されているような滑稽さがあったというべきだろうか.

 別にこの小説でテーマになっているような恋愛問題ではなくても,妄想や空想は悪いものじゃない.そこには無限の可能性があり,人間の希望でもあり,時には生きる糧にもなるのだ.ただ,妄想や空想の種が現実の生活の中にあったなら,あまりに温めすぎるといざ現実を突きつけられたとき,ギャップが堪えるよ,という感じの小説.それでも,自分は妄想を,空想を放棄はしないだろう.妄想や空想は必ずしも毒ではないし,そういうニュアンスがこの小説からも少なからず読み取れる気はしている.これまた,都合のいい自分の妄想解釈かも知れないけれど.

2010/09/07

乾くるみ『イニシエーション・ラブ』

イニシエーション・ラブ (文春文庫)
乾 くるみ
文藝春秋
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 なにやらミステリー的な要素がある,という空気がポップアップから感じられたので,期待もせずに買った本.後で調べたら結構話題にはなっていた本らしい.

 内容的には,普通の恋愛小説.初々しさが個人的にはツボではあるものの,別に大きな話題になるほどのものでもない.ただ,読み進めていて「あれ?」と違和感を感じるところが幾つかあって,最後の最後でからくりが分かった.それまで割と綺麗な恋愛小説だと思っていたら,狡猾な黒い小説に一変して血の気が引いた.

 とは言え,本当にからくりに気付くか気付かないかのギリギリのところで何とか気付いたようなものだ.後でwebで幾つかレビューを読んでみたら,どれもさも気付くのが当たり前かのように書いてあるものだから,ひょっとしたら自分は相当注意力が弱い,ないしは散漫になっているのかも知れない.最後の2行が鍵,みたいに紹介されてはいたものの,最後の2行でからくりの全貌に気付ける人なんてそう多くいるんだろうか.「あれ?どういうこと?」と混乱する程度がいいところだと思うのだけれど.

 ともあれ,からくりに気付く前後で小説の雰囲気がまったく反転する,という面白さはあっていい.小説としては波が少ないけれども,試験的な小説だと思って読むのはあり.ただし,似たような試験的な小説は,例えばライトノベルの世界であるとか,ゲーム小説の世界であるとかには幾らでもある気がする(自分でも思い当たるものが無いわけでもない)ので,革命的かどうかはよく分からない.

2010/09/06

フランダースの光―ベルギーの美しき村を描いて

 最初にポスターを見た瞬間に,なんという美しい絵だ,と思った.それまで,Emile Clausという名前は聞いたことがあるくらいで,特に意識したことが無かったのだけれど,少なくともポスターから感じた期待値は今年観たどの企画展よりも高かった.思わず,渋谷の駅のホームで立ち止まって魅入ってしまったほどだ.

 渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「フランダースの光―ベルギーの美しき村を描いて」展.実は関西で先行開催されていて,満を持して東京にやって来た企画展だったのでおのずと前評判は耳に入っていたのだけれど,東京での公開初日に早速美術展に足を運び,そして度肝を抜かれた.タッチ,色使い,モチーフ,構図,全てが奇跡的に美しい.先日の「語りかける風景―ストラスブール美術展」で観たMaurice Herriotの傑作と通じる魅力があるけれど,それだけではないのだ.
 ねっとりとした筆遣いと,点画法と呼ばれる粗いスパッタリングのような筆遣いが随所で色彩豊かに使い分けられていて,強弱が平面の中で立体的に描き出される.遠近法に加えて,シャープな輪郭とぼんやりとした輪郭とを使い分けている点でも,視覚のリアリティを忠実に描き出す.多くは農村の風景がモチーフであり,ベルギーはフランダースのラーテム村という農村に集まったClausをはじめとする画家たちの,自然と人間への温かさと優しさが滲み出るような生命力を感じさせる.それは,バルビゾン派のMilletやCorotから半世紀ほど後れをとりながら,或いは彼らの作品よりも更に胸躍らせる魔力を持っているようにも見える.バルビゾン派の作品よりも,技巧的にも面白く,そして何より,明るいのだ.

 企画展のタイトルにも選ばれている「光」は,自分が2年前にVermeerに感じた最大の魅力でもある.Vermeerのように光を巧みに操った絵という印象は少ないけれど(解説を読んでみるとなるほどEmile Clausもまた意図的に光を駆使してもいるのだが),バルビゾン派の絵画が,暗く,重く,しかし強い人間の姿であるならば,Clausの絵画は,明るく,軽く,希望に満ちた人間の姿とでもいうべきだ.

 帰って来て図録を長めていても,全くといっていいほど飽きない.美術館で見た生々しいタッチが思い出され,同じ日にもう一度美術展に足を運びたくなる.ポスターで取り上げられている「刈草干し」意外でも,「ピクニック風景」,「野の少女たち」(個人的にはこの絵が一番好き),「レイエ川沿いを歩く田舎の娘」,人物が描かれた作品はことごとくいい.ここに挙げた後ろ2つの作品は個人蔵ということもあって,この機を逃すと一生の間に再会できるか分かったものではない.ウォール・ストリートの名実ともに最高峰のクオンツたちがこういう作品を意図も簡単に競り落としてしまえることこそが,羨ましくも思える.

 東京に戻ってから観た美術展は相変わらずどれもセンスが良く,満足な企画展ばかりだけれども,この「フランダースの光」展は今年のどの企画展よりも美しい.言葉で言い表せないような魅力が,Emile Clausの絵にはある.ベルギー絵画,フランダース.今までノーマークだったけれど,次の欧州旅行はVermeerを訪ねて間違いなく本家のオランダを組み入れるだろうから,ベルギー絵画ももう少し研究して,寄り道してみようと思う(実はベルギー国境までは行っているのだが).来年はオランダに行こう.来年の長期連休は,オランダからベルギーを抜けて,パリだ.

2010/09/05

藝祭2010(東京藝術大学2010年度学園祭)

 初めて行った大学の学園祭が東京大学で,アカデミックな企画が目白押しだったから,自分の母校の学園祭でさえあまりに幼く見えてしまって,毎年学園祭のシーズンは国内旅行に充てていた.ゲストの有名人ばかりが話題に上がる他の大学の学園祭にも特に興味が無かったが,芸術系の大学の学園祭だけは企画の内容からして色が違うので関西でも何度か遊びに行ったことがある.
 東京に戻って来た今年は,本命の東京藝大の学園祭に是非行ってみたいと思っていて,満を持して参戦して来た.午前中に新美術館の二科展で1000点以上の作品を見て来たあとだったので,既に頭が朦朧としている状態だったのだが,そんな疲れを忘れさせてくれるくらいにいい企画が多かった.

 模擬店にはまったく興味が無いので,焦点は美術,映像,映像の三つ.知り合いの娘さんの作品が展示されているとのことで,まずは美術からひととおり観たあとで映像,音楽とまわって来た.

 美術は,油絵,デザイン,彫刻などなど分野,年次ごとに展示が分かれていて,とにかく日本画がいい.一番良かったのは修士課程の学生の日本画の展示で,職業画家にはない開放感が一番に感じられた.
 二科展を観てきた直後だったということもあるのだけれど,まさに若い人達の,そして学生の作品という感じが物凄くする.素人目に観ても,新しさと面白さがある.それでいて流石にベースの技術がしっかりしているから,見ていて圧倒される作品がチラホラある.作品そのものよ以上に,隣に置かれている過去の作品集やデッサン帳が強烈で,この人達は自由に,愛を持って絵に向き合っているという印象を受ける.プラスの方向での苦悩が見える.彫刻やデザインの分野でも,そういった印象はいやというほど感じられて,とても強烈なインスピレーションを貰って来た.

 二科展のような正統派の美術展の場合,多くの作品は,それで生計を立てるのだという制約もあって,企画展の締切までに作品を完成もさせるし,完結もさせる.時には妥協も止むを得ない.戦う相手は自分自身だけではなく,時には他の出品者であり,審査員である.「この絵にはまだ先があるから,出展を来年に延ばそう」という風にはなかなかならないものなのではないか(実情を知っているわけではないので作品を見ている限りの想像でしかないが).そんな印象を受ける絵が,少なからずあった(逆にそうではない作品は学生より遥かに上乗せされた技術と経験と信念を以ってして圧倒的なパワーを魅せつけるのだが).
 一方で,藝大の作品群はそれとは違う.この学園祭に最悪間に合わなくても,製作者の人生が途切れるわけではないのだ.賞を取ることが目的ではない(学園祭でも投票制度は設けられていたけれど).戦う相手は,確実に自分自身である.締め切りを意識する前に,自分の作品と時間の限り対話する.そこで生まれるのが,新しさであったり,面白さであったりするのだと思う.実際に,明らかに製作の途中で展示にまわしている作品もチラホラあった.でも,そこからは未完成の失望ではなく,あとあと到来する完成への期待を感じてしまうのだ.

 双方に,それぞれ魅力があり,それぞれ勿体なさがある.パトロンについて媚を売る美術の時代はおおむね終わったけれども,現代には現代の,絵画の落とし穴や難しさがあるのだなということを自分なりに感じ,一方で,普段見られない絵画の最先端をあらあらと見せ付けられた一日だった.

 映像は,学生製作を何本か見るも,一つ一つが短いので,もう少し長めの作品を見たかった.長めの作品も上映されていたはずなので,時間に余裕をもって,機会があれば来年また来たいなと思ったが,そもそも多くの学生の作品を流すという意味で,多くの学生には時間の制約もあるのかも知れない.音楽は,ケルトミュージックのミニ演奏を聴いてきた.本当なら,もう少し長い演奏会(この日ならオルガンコンサートなど)に行こうと思えば行けたのだが,何と藝大の学園祭のあとで今度は渋谷の美術館にハシゴする予定があったので,ここはあえなく断念.人数的にも,音楽の企画に一番人が集まっていて,企画の時間近くになると長い行列が出来るという感じだった.やっぱり,じっくり時間をかけて回るのがいい.

2010/09/04

宮下奈都『遠くの声に耳を澄ませて』

遠くの声に耳を澄ませて
宮下 奈都
新潮社
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 現時点で出版されている宮下奈都さんの最後の著作『遠くの声に耳を澄ませて』.この本を読み終えてしまったらもう次は彼女の新作を待つしかなくなってしまう.それがあまりにも哀しくて,机の上に置いたままなかなか読み出せないでいたのだけれど,動かないでいても何も始まらないというのはこの一年で学んだ教訓でもあるので,意を決してページを開いた.

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 読み始めたの最後の短編集.
 最初の一編を読み終えたときに愛おしさを感じた.この人の作品は芸術のようだ.
 次の一編を読み終えたときに物哀しさを感じた.短すぎてあまりに足りない.
 次の一編を読み終えたときに絶望を感じた.『スコーレNo.4』の更に上を行くような清々しさと美しさと希望と愛を感じさせる至高の短編だった.やはりこの人の本が読めなくなるなんて絶望以外の何者でもない.

 この先を読もうか迷ったものの,途中で滞らせておくのもどうかと思いつつ,もう一編だけと四編目を読み始めたとき,全身が震える.電流が走るとともに,ページをめくる手が止まらなくなった.

 『よろこびの歌』と同じく最後に残しておいたこの一冊もまた,短編集ではないのだ.
 描かれない部分を自分の想像や空想で補いながら読み進めるのも小説を読む醍醐味の一つだろう.実際,彼女の作品でなければ自分もそうだ.しかし,次々につながって見えてくる彼女の世界は,自分の想像や空想ではとても描き出せないところにある.最後まで読み終えたとき,他の作品でそうだったように,彼女の作品に散りばめられた一つ一つの言葉を,壊さないようにそっと思い出しながら,恍惚といっていい読後感に浸るのだ.

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 袖触れ合うも他生の縁.知り合いとも呼べないくらいの遠い関係から,古い時代の恋愛関係まで,人と人とをつないで紡いでいくひとつの物語がある.12人の主観で見る風景は,それぞれ違っている.ある人にとって日常の何でもない一コマだったものが別の人にとってのかけがえのない記憶だったりする.宮下奈都さん持ち前の,抜群の感性と,磨き上げられた価値観と,にごりけのない透明感と,圧倒的な文才.大抵の作品(勿論,この作品にも)にはそこにモチーフとして「料理」が加えられ,そしてこの一冊に上乗せされたのは「旅」だった.旅を考える.生き方を考える.12人全員の眼鏡に,震えるような共感を感じて,思わず椅子から立ち上がる.今にも走り出しそうな足を,必死で押さえつけて続きを急ぐ.

 この本におさめられた短編の幾つかについて,覚書をしておこう.

・「どこにでも猫がいる」
 圧倒的といっていい.自分を根こそぎ描かれたような恥ずかしさすら感じる.言葉の一つ一つに,一瞬たりとも気が抜けない.宮下奈都さんの魅力を十二分に詰め込んでなお,構成や言葉の選び方,濁し方まで,魅力に底が見えない.

・「秋の転校生」
 みのりのご飯に対する思いが,あまりに美しい.他の作品でモチーフになった豆以上に,食の幸せを感じる一編だった.

・「白い足袋」
 一人の若い女性がぬかるんだ雪道を足袋で全速力で走り抜く姿を,これほど迫力と希望を感じさせて描くことが他の作家に出来るだろうか.「足袋で全力疾走」という字面から想像される滑稽な絵とは逆に,読みながら思い描く絵はあまりにも美しかった.

2010/09/03

三浦綾子『ひつじが丘』

ひつじが丘 (講談社文庫)
三浦 綾子
講談社
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 三浦綾子もまた読むのは高校のとき以来.高校一年の夏休みに,三浦綾子の『泥流地帯』が課題図書で出されて,感想文だか評論だかを書かされたか書かされなかったかは覚えていないが,思いのほか面白くて『続・泥流地帯』や『塩狩峠』まで読んだ記憶がある.内容的にはだいぶうろ覚えだけれども,愛であるとか自己犠牲であるとかといったテーマは自分にはとても近いものに感じられて,根本的なところはいまだに自分自身の血肉として身体をめぐり続けているように思う.久々に三浦綾子を読もうと思って書店に入って,表紙の淡白さと帯のフレーズに惹かれて買って来たのが『ひつじが丘』だ.

 話の展開そのものは,ありがちで,緩やかに進む.つまらないわけではないが,急かされるような出来事もない.ただただ,自分の日常や倫理観と照らし合わせながら読み進めて,最後の数ページで一気に涙が止まらなくなった.最後に登場した宗教画の描写があまりにも美しかったことと,それがこの物語の核心をあまりに象徴的に描いていたからだ.読んでよかったと思う.
 それ以外で『ひつじが丘』で一番印象的だった一文は,「他の人に対しては忍耐深く寛大であれ.あなたも他人が耐え忍ばねばならぬようなものを,事実において多く 持っているからである.」というもの.イミタチオ・クリスチからの引用とのことだが,実践できているかどうかは別問題にしても,自分はこれに近い価値観を 随分長いこと信念の近いところにおいてきたつもりでいる.元々,怒ったり許せなかったりすることはない穏やかさはあると思うのだが,加えて理屈でも,果た して目の前にあることに怒りをあらわせるほど,自分は誇るべき生き方をしているだろうか,と考える節がある.この小説を読み終えて,こういう自分の価値観 は無駄ではないし,例え報われなかったとしても,例え自己満足でしかなかったとしても,誰かを傷付けることにはきっとならないと改めて考えさせられた.

 象徴的なシーンがあるわけではないし,表現や構成に格別魅力を感じるというわけでもない.それでもこの人の本に安心感を感じるのは,多分,自分自身かなりクリスチャン的な価値観に近いものを持っているからなんだと思う.自分自身無宗教の無神論者であるし,いまの宗教には嫌悪感ばかり感じる人間の一人でもあるわけだが,文化や歴史としての宗教と,旧時代に築き上げられてきた倫理的な宗教にはある種の畏敬を感じるところがある.度重なる歴史的な事件や事故の中で,人間が自身を省み,戒め,問い続けてきたがゆえに磨き上げられた生き様や理想のようなものが感じられる.今でこそ,哲学や神学,文学といった領域でやたらと難しく語られがちな宗教観も,実は日常のよしなしごとに落とし込んでみれば,いたって簡単で,わかりやすいものなのだということが,三浦綾子の小説を読むとよく分かる.聖書的な難しさと,人間の日常との間を橋渡しするようなところが,三浦綾子の小説の醍醐味だと思う.この本の中で意外と面白かったのが水谷昭夫による巻末の解説で,本編を読み終わったところで自分が感じたこれらのことを,スッキリと整理する指針になった.

 身のまわりを見ても,どこか歯車のずれている日常がそこらじゅうにある.価値観が違うから嫌だとか憎たらしいだとかは思わないけれど,それにしても,倫理観や道徳観といったものを,考えたり見つめなおしたりする時間そのものが,今の日本には足りないんじゃないだろうかと思うときがある.三浦綾子の小説は,若年層のみならず大人にとっても,キリスト教という一方向からの価値観ではあるにしろ,そういったものをかなり近しく考えさせてくれるいい材料になるだろうと思う.

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